【「耳寄りの話」−海の武士道】


○「海の武士道」:駆逐艦いかずちの艦長工藤俊作は漂流中の敵英兵422名を救助したのでした。
■平成20年12月8日、赤坂のグランドプリンスホテルで「工藤俊作艦長顕彰会」(会長は平沼赳夫衆議院議員) が400余名の参列者のもと盛大に開催されました。
この顕彰式には英国からはるばる89歳のフォール卿が参列されました。話は11年前に遡ります。
■1.「旧敵との和解」
1998(平成10)年4月、英国では翌月に予定されている天皇の英国訪問への反対運動が起きていました。 その中心となっていたのは、かつて日本軍の捕虜となった退役軍人たちで、捕虜として受けた処遇への恨みが原因でした。その最中、元海軍中尉 サムエル・フォール卿がタイムズ紙に一文を投稿したのでした。 「元日本軍の捕虜として、私は旧敵となぜ和解することに関心を抱いているのか、説明申し上げたい」と前置きして、ご自身の体験を語ったのです。
■大東亜戦争が始まってまもなくの1942(昭和17)年2月27日、ジャワ島北方のスラバヤ沖で日本艦隊と英米蘭の 連合部隊の海戦が始まり、連合部隊の15隻中11隻は日本帝国海軍に撃沈され、4隻は逃走。3月1日にスラバヤ沖で撃沈された英海軍の巡洋艦 「エクゼター」、駆逐艦「エンカウンター」の乗組員4百数十名は漂流を続けていましたが、翌28日、生存の限界に達した所を日本海軍の駆逐艦 「雷(いかづち)」に発見されました。「エンカウンター」の砲術士官だったフォール卿は、「日本人は非情」という先入観を持っていたため、 機銃掃射を受けて最期を迎えるものと覚悟したそうです。ところが、駆逐艦「雷」は即座に「救助活動中」の国際信号旗を掲げ、漂流者全員422名 を救助したのでした。
(⇒この一部始終を著した【海の武士道】)
■2.「今や諸官は、日本海軍の名誉あるゲストである」
フォールズ卿はこう回想しています。「私は、まさに『奇跡』が起こったと思い、これは夢ではないかと、自分の手を何度もつねったのです。間もなく、 救出された士官たちは、前甲板に集合を命じられた。すると、キャプテン(艦長)・シュンサク・クドウが、艦橋から降りてきてわれわれに端正な挙手 の敬礼をしました。われわれも遅ればせながら答礼しました。キャプテンは、流暢な英語でわれわれにこうスピーチされたのです。 『諸官は勇敢に戦われた。今や諸官は、日本海軍の名誉あるゲストである。』」 翌日、救助された英兵たちは、オランダの病院船に引き渡されたました。 移乗する際、士官たちは「雷」のマストに掲揚されている旭日の軍艦旗に挙手の敬礼をし、またウィングに立つ工藤に敬礼し、工藤艦長は、丁寧に一人一人 に答礼をしたといいます。
(⇒駆逐艦「いかずち」の写真)
■日本帝国海軍にこの救済劇の記録は残っていません。12月8日顕彰式に元駆逐艦「雷」の剰員2名が参加されていて、インタ ビューに答えて「当然のことをしたまでで、特に誇らしいと思わなかった」と語っていました。これこそ「サイレント・ネービー」の伝統というべきでしょうか。 その駆逐艦いかずちは昭和19年4月13日サイパン島からメレヨン島へ向けて出航し米潜水艦の攻撃を受けて撃沈されました。生存者なしと云われています。 幸い工藤俊作元雷艦長は復員され奥さんの実家で過ごし、その後川口市内に転居されましたが、昭和54年1月12日78歳の生涯を終えられました。
(⇒駆逐艦「いかずち」に救助された英兵の写真)
フォール卿は、戦後、外交官として活躍し、定年退職後、1996(平成8)年に自伝『マイ・ラッキー・ライフ』を上梓し、 その巻頭に「元帝国海軍中佐工藤俊作に捧げる」と記しています。そして終生工藤艦長を尊敬し、日本武士道を称えてきたといいます。 平成15(2003)年10月、フォール卿は日本の土を踏み、観艦式に招かれて4代目「いかずち」に乗船されました。84歳を迎える自身の「人生の締めくくり」 として、すでに他界していた工藤艦長の墓参を行い、遺族に感謝の意を表したいと願ったのでした。しかし、あいにくこの時点では工藤艦長の墓所も遺族の所在も分からず フォール卿の願いは叶えられませんでした。
(⇒若き日のフォール卿の写真)
■ 3・工藤俊作艦長顕彰の会
その後恵隆之介氏(元海上自衛官・「海の武士道」著者)のご努力で、工藤艦長の墓所が判明し(墓所は川口市朝日の薬林寺)、89歳になられたフォール卿をお迎えして 今回の顕彰の会が開かれたのでした。前日12月7日には薬林寺で工藤俊介艦長の墓前に顕花されるフォール卿の姿がありました。フォール卿が戦後半世紀にわたってこの 海の武士道の話を語り続けてこられたという事実に対して、深く敬意を表しようと いう配慮もありました。この「海軍中佐工藤俊作顕彰の会」は、工藤俊作艦長のみならず、撃沈された駆逐艦いかずちの剰員、いかずちの生存者、工藤家の皆様、フォール卿 を顕彰する目的で結成されたものでした。
(⇒駆逐艦「いかずち」工藤艦長の写真)
■4・何故、工藤艦長は敵兵を救助したのか
顕彰会の式典の席上、フジテレビの司会者は、「何故、工藤艦長は敵兵を救助したのか?」について、「日本海軍は英国海軍から教育を受けていた歴史がある」と語って、 残念ながら武士道のルーツが英国騎士道であるごとき説明になりました。しかし、果してそうでしょうか?その根拠はすぐ見つかりました。以下の2点です。
(⇒英巡洋艦「エクゼター」の写真)
■○海軍兵学校・鈴木貫太郎校長の教育
工藤艦長は、海軍兵学校51期でしたが、入学時に校長をしていた鈴木貫太郎中将の影響を強く受けたと云われています。鈴木校長はその後、連合艦隊司令長官を務めた後、 昭和4年から8年間も侍従長として昭和天皇にお仕えしました。その御親任の厚さから、終戦時の内閣総理大臣に任命されて、我が国を滅亡の淵から救う 役割を果たされたことは周知の通りです。
(⇒工藤家のお墓)
■海兵51期が入学した時、着任した鈴木校長は、従来の教育方針を以下のように大転換したそうです。
【鈴木貫太郎中将の教育指針】
・鉄拳制裁の禁止
・歴史および哲学教育強化
・試験成績公表禁止(出世競争意識の防止)
日本古来の武士道には鉄拳制裁はない、というのが、その禁止の理由だったそうです。工藤ら51期生は、この教えを忠実に守り、最上級生になっても、下級生を決してど なりつけず、自分の行動で無言のうちに指導していたといいます。(⇒工藤艦長の墓前のフォール卿)
■【明治天皇の御製の教育】
歴史および哲学教育の強化の一貫としては、鈴木校長自身が明治天皇御製についての訓話を行い、

 四方の海、皆はらからと思ふよに 
      など波風に立ちさわぐらん


の御製から、明治天皇の「四海同胞」の精神を教えたと言われています。

(⇒「史実が語る日本の魂」名越二荒之助著)
■○「史実が語る日本の魂」名越二荒之助著(財団法人モラロジー研究所・刊 04-7173-3155)
それ以上に名越二荒之助先生の「史実が語る日本の魂」の中に、工藤艦長は子供のとき村上彦之丞将軍のロシア兵を 助けたときの歌を祖父から教えられて育ったと紹介してありました。だからこそ昭和17年2月28日、工藤艦長は躊躇なく救助を命令したのでしょう。 このお話は、日本人として誇りをもって長く語り継いでいかねばならない美談だと思います。 これが日本と云う国柄なのです。残念ながら顕彰会の当日、ここまでの背景をフジテレビのスタッフは伝えませんでした。 以下に、「史実が語る日本の魂」の中の工藤艦長の部分をご紹介いたします。(完)