【江戸時代の教育】のページ


○江戸時代の教育は世界に冠たるものでありました。その教育が近代日本を創ったのです!
   【士族の教育:藩校】 (フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から参照)
  武士の教育 ■徳川家光時代までの武断政治から文治政治への転換と共に、藩校が各地に設立されて行った。日本初の藩校は、 1641年(寛永18年)に岡山藩主池田光政が設立した花畠教場(はなばたけきょうじょう)が最初である。 しかし、全国的に藩校が設立された時期は宝暦期(1751年 - 1764年)以後であり、多くの藩が藩政改革のための 有能な人材を育成する目的で設立した学校が多い。各地では優秀な学者の招聘も盛んに行われた。 発展期には全国に255校に上り、ほぼ全藩に設立された。藩校の隆盛は、地方文化の振興や、各地域から 時代をリードする政治家や学者の輩出にも至った。代表的な藩校としては、会津藩の日新館、米沢藩の興譲館、 水戸藩の弘道館、長州藩の明倫館、佐賀藩の弘道館、熊本藩の藩校時習館、薩摩藩(鹿児島藩)の造士館などが有名である。 内容や規模は多様だが、藩士の子弟は皆強制的に入学させ、庶民の子弟は入学できない。 広義では医学校・洋学校・皇学校(国学校)・郷学校・女学校など、藩が設立したあらゆる教育機関を含む。 全国的な傾向として、藩校では「文武兼備」を掲げ、7〜8歳で入学して第一に文を習い、後に武芸を学び、 14〜15歳から20歳くらいで卒業する。教育内容は、四書五経の素読と習字を中心として、江戸後期には蘭学や、 武芸として剣術・槍術・柔術・射術・砲術・馬術などが加わった。

岡山藩・花畑教場 1641年設立:■藩主・池田 光政は儒教を信奉し陽明学者・熊沢蕃山を招聘し、寛永18年(1641年)全国初の藩校「花畠教場」を開校。寛文10年(1670年) には日本最古の庶民の学校として「閑谷学校」(備前市、講堂は現在・国宝)も開いた。教育の充実と質素倹約旨とし「備前風」といわれる政治姿勢を確立した。

会津藩・日新館 1664年設立:■「什の掟」で入学前の子弟を指導したことで有名。会津藩家老田中玄宰の進言により計画される。 1803年(享和3年)、 会津藩の御用商人であった須田新九郎が新築経費を寄付したため、会津若松城の西隣に日新館の校舎が完成。東西約120間、南北おそよ60間の敷地に 水練場や天文台までをも備えた全国有数の藩校となった。当時の会津藩の上級藩士の子弟は10歳になると日新館に入学した。15歳までは素読所(小学) に属し、礼法、書学、武術などを学んだ。素読所を修了した者で成績優秀者は講釈所(大学)への入学が認められ、そこでも優秀な者には江戸や他藩へ の遊学が許された。全国に数ある藩校の中でも屈指の教育機関であると言える。1868年(慶応4年)、戊辰戦争により校舎は焼失。現存するのは会津若松城趾西側に残る天文台跡のみ。

長州藩・明倫館 1719年設立:■萩藩6代藩主毛利吉元が萩城三の丸追廻し筋に創建(敷地940坪)。1849年(嘉永2年)には、14代藩主 毛利敬親が藩政改革に伴い萩城下江向へ移転(敷地15,184坪。建物総坪数11,328坪、練兵場3,020坪)。1863年(文久3年)、藩庁の山口 移転により、上田鳳陽が1815年(文化12年)に山口市中河原に開設していた私塾山口講堂(後に山口講習堂)を山口明倫館と改称、 藩校に改め、萩・山口の両明倫館が並立することとなる。

米沢藩・興譲舘 1771年設立:■第9代藩主上杉治憲(鷹山)が学問所を再興し、招聘した細井平洲(紀徳民)を馬場御殿の松桜館に迎え学生に講授。 1776年(安永5年5月19日) - 学館が落成し、藩校「興譲館」と細井平洲命名する。(9月12日) 平洲再び米沢に入る。このとき学則(先生施教弟子是則・・) を揮毫し、(9月19日)初めて学館に於いて書経を講じる。

佐賀藩・弘道館 1781年設立:■佐賀藩第8代藩主 鍋島治茂古賀精里(儒学者)に命じ、佐賀城に近い松原小路 に藩校弘道館を設立した。設立にあたり熊本藩校時習館をモデルとした。鍋島治茂は石井鶴山(儒学者)を熊本藩に派遣し、 成功した改革と藩校の関係を学ばせた。改革の秘訣は「改革の担い手となる人材の育成」にあった。 古賀精里は弘道館の初代校長格、石井鶴山は教頭格となった。弘道館の教育理念は旧制佐賀中学校(現・佐賀県立佐賀西高等学校) と勧興小学校(現・佐賀市立勧興小学校)に受け継がれた。 勧興小学校は年少者が学んでいた蒙養舎を継承して開校した。 その校舎の2階には現在も資料室「懐古堂」がある。 旧制佐賀中学校は弘道館跡に開校した。

熊本藩・藩校時習館 1756年設立:■九州熊本藩(現、熊本県熊本市)第8代藩主細川重賢(しげかた)が 宝暦5年(1755年)に設立した文武両道の藩校。明治3年(1870年)に廃校になった。 細川内膳家の長岡忠英を初代総教(総長)に、秋山玉山を教授に迎えて開校し、115年続いた全国に名を 知られた藩校のひとつである。
熊本藩士族の文武両道、質実剛健の気風を育てたとされる。 幕末期には横井小楠が時習館に学び、塾頭も勤めた(小楠は後に時習館を脱退する)。

薩摩藩・造士館 1773年設立:■鹿児島藩には早くから藩校を作る計画があったが、予算不足などの理由 で長らく放置されていた。8代藩主・島津重豪はこのような実状に危惧を抱き、安永2年(1773年)、 鹿児島城二ノ丸御門前に約3400坪の敷地を確保し、儒教の聖堂である「宣成殿」、講堂・学寮・文庫など を建設した。これが「造士館」の始まりである。初代館長には重豪気に入りの学者であった山本正誼が任命 された。

水戸藩・弘道館 1841年設立:■創立は、1841年(天保12年)8月。第9代水戸藩主の徳川斉昭によって 水戸城三の丸内に作られた。維新回天の先導力になった。建造には腹心の戸田蓬軒が務めた。 また、経営にあたる学校奉行には、蓬軒の実弟 安島帯刀が任命された。文武両道を教育方針とし、 馬術や剣道やという武道のほかにも、広く諸科学、諸学問が教育・研究された。

        
【庶民の教育:寺子屋】 【寺子屋風景】
就学率 ■寺子屋の就学年齢や卒業時期は、特に定まっていた訳ではなく、およそ5〜6歳で就学し、 13〜14歳から18歳になる頃まで修学する例が多かった。男子限定や女子限定の寺子屋も少なくはなかったが、 男女共学の寺子屋が多数であった。江戸における嘉永年間(1850年頃)の就学率は70〜86%といわれており、 イギリスの主な工業都市で20〜25%(1837年)、フランス1.4%(1793年)、ソビエト連邦20%(1920年、モスクワ) と、外国に比べ就学率が高かった。

寺子屋の数 ■享保六年(1721年)には江戸市中に寺子屋の師匠は約800人幕末には全国で一万五千から二万ほど の寺子屋があったと推計され寺子屋のない町や村はないとまで言われた。現代のように教員免許制度はなく教える場所も 自由で誰でも自由に開くことができた。師匠の裁量が大きな部分を占め幕府と藩は援助も介入もしなかった。

授業時間と休日 ■個人経営のため師匠の自由裁量で授業時間は決められるがだいたい午前八時から午後二時まで。 昼食は十二時。給食はなく家に帰って食べるか持参した弁当を食べた。現代の学校のように全ての授業時間にいる 必要はなく通ってくる生徒が来られる時間帯だけ来て家の用事か御稽古事に通う時間になると帰った。休日は毎月の 1、15、25日の定休日と五節句、年末年始(12月17日から1月16日)と臨時の休日など年間五十日あるが師匠の裁量次第で自由に決められた。

入門料と授業料 ■定額制ではなく社会的地位や経済状況に応じて支払える額を支払った。師匠は「学は金銭で売るもの」と考えず 「師匠という地位を誇り」と思い金銭についてほとんど言わなかった。入門料は師匠にふさわしい額を近所から話しを聞いて入門者 の親が判断した。二百文から三百文、余裕があれば二朱、大店なら一分を包んだそうだ。先輩に煎餅を配る習慣があり一枚五文ぐらい を人数分用意した。道具類は机は貸してもらえたが筆や半紙など他の道具は生徒が用意した。教科書は寺子屋の備品を使う。 六月の畳替えや冬の炭代を負担し盆暮れや五節句には百文から千文程度(一ヶ月辺り二十文から三百文。)を親の経済的地位に応じて礼金として持参した。

教育内容・「往来物」 ■現代の学習指導要領に相当するものはなく教育内容は師匠の裁量と父兄の要望に任されていた。
@まず最初にいろは四十八文字の 読み書きと文字の意味や数字を教えた。
A短文の読書きを教え「名頭(人の姓の最初を漢字で書く)」、「名字尽くし」や手紙文と商用の送り状、 請取状など実用的な文章ものを学んだ。
B地理に関する教育は江戸の寺子屋なら江戸の町名を読書きしながら江戸の地理を学ぶ「江戸方角尽」や江戸の生活や行事について習う「江戸往来」、 「東海道往来」、「国尽くし(山城、武蔵など日本の地名の国名)」と言った地理を学んだ。
Cその後、庭訓往来や漢文の基礎である千字文などを教えた。
D最後に百姓なら「百姓往来」、商人なら「商人往来」 と相場について、職人なら「番匠往来」 など子供の親の職業に合わせた教科書を使い職業に必要な用語を覚えた。
Eまた、礼儀作法を身につけさせるのも寺子屋に期待されていた事柄である。
通ってくる子供の年齢や職業がバラバラで一律に教えるのではなく個別指導をしていた。庶民が武士の師匠に習うことはできた。算盤の代わりに唐詩選 や千字文など漢文を教えるが商家や職人の子供には漢文の知識は必要とされていないためわざわざ通うことは少なかっただろう。往来物は七千種類あり そのうち女性用は千種類あり寺子屋の備品で使いまわしされていた。

高等科
 (実語教
 女大学
 女庭訓往来)
■希望者のみ高度な内容を教えた。男子には古状揃実語教童子教三家教四書五経など漢文を素読し、 女子には女今川、百人一首、女大学、女庭訓往来源氏物語などを教えた。学問所と違い師匠も内容がわからないためか解説はしなかったようだ。江戸時代では高い教養を持っていても学者を目指す者以外はさほど得にはならない。 よほど勉強熱心な者か経済的に余裕のある者に限られていただろう。

幕府による道徳教育 ■幕府は享保五年(1720年)に八代将軍吉宗は南町奉行大岡越前を通じて指導要領を高札にして下付し道徳教育の実施を命じた。 二年後には「六論衍義大意」という中国の書物を要約した本を刊行し江戸の寺子屋の師匠に配布した。
内容は「博打など犯罪を犯さないように」や 「親孝行をしなさい」「年長者を敬いなさい」など現代の学校の朝礼などで校長先生か担任の先生が生徒で訓示するぐらいの常識の範囲が十条ある。 これ以降、寺子屋で道徳教育を行うようになる。
幕府は庶民が掟を熟知することで犯罪が減ることを期待したが寺子屋に経済的援助は行われなかった。

師匠の収入 ■師匠の収入は嘉永・安政年間(1848から1859年)には生徒百人いれば生活が楽で二百人なら二十石取りの武士並(約十四両に相当か)と言われている。 師匠は学は金銭で売るものと考えず師匠という地位を誇りに思うことから金銭についてはほとんど言わなかった。尊敬はされるが暮らし向きは楽ではなかっただろう。 師匠は町民や商家の隠居が主だが御家人や僧、浪人もいた。地方では郷士や名主の他に村役人が師匠になる。十六巻浮沈の金貸し平松多四郎のように副業でしているもの もいただろう。また、教え子や昔の教え子が何かにつけて師匠に贈物をするなど結びつきは強い。