【「耳寄りのお話」ー「真の友情を得た藤原機関」】のページ


■F機関の誕生■
日本陸軍には上陸作戦を予定していたマレー半島の軍事情報が乏しかった。1940年(昭和15年)陸軍参謀本部は藤原岩市少佐 を 数名の将校と軍属をつけてバンコク派遣を決めた。藤原機関の発足である。目的は開戦に備えてのマレー半島の調査研究である。 後に「F機関」と呼ばれるが、この「F」とは Freedom,Friendship,Fujiwara の「」である。

■藤原岩市少佐(当時)■
○明治41年3月1日生れ〜昭和61年2月24日没
○出身:兵庫県
○軍歴:昭和6年〜昭和20年 日本陸軍
    :昭和29年〜昭和41年 陸上自衛隊
○最終階級:陸軍中佐(日本陸軍) 陸将(陸自)
○戦功:マレー作戦とビルマ進攻作戦の成功

藤原少佐は英語もできず、諜報活動の経験もなかったが、誠意と真心でもって敢然としてその使命に立ち向かった。
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■昭和16年12月8日 日本時間午前1時30分■
わが帝国陸軍第18師団の佗美(たくみ)支隊はマレー半島のコタバルに上陸し、日英の開戦の火蓋が切って落とされた。 これは真珠湾攻撃に先立つこと1時間50分前の出来事であった。ほぼ同じ時刻、タイ最南部のシンゴラ(現ソンクラ)、 パッタニーにも陸軍部隊が上陸。英領マレーを目指して進撃を開始する。 大東亜戦争・対英国戦の始まりである。その報せを受け、バンコク市内にいた一人の大使館職員は、 それまで秘していた身分を明かし、直ちに作戦行動に移った。帝国陸軍の諜報エリート・藤原岩市少佐である。

■藤原岩市の役割■
この異彩の放つ軍人の頭脳と行動が、後にインド全土に独立の嵐を吹き荒らすとは、その時、誰一人想像だにしていなかった。 藤原岩市氏こそ、アジア解放・諸民族団結の大御心を実践した大東亜戦争の英雄の一人である。
そして彼が率いた「F機関」の軌跡に大東亜戦争の真の崇高な目的が集約されていた。 その活躍は昭和41年に、本人の手でまとめられた『F機関』(原書房)の中に詳しく書き残されている。
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■F機関は丸腰で活動した■
藤原岩市はF機関の立場をこう説明している。「私達の仕事は、力をもって敵や住民を屈服するのではない。 威容をもって敵や住民を威服するものではない。私達は徳義と誠心を唯一の武器として、敵に住民に臨むのである」 F機関が進めたのはマレー半島に暮らすインド系住民への宣撫工作であった。つまり、白人植民地からの解放を旗印に、 東亜民族の団結を謳い、日本軍への協力を求めるものであった。 その言に誤りはなく、F機関メンバーは、一貫してほぼ丸腰で活動を続けていた。

■アロースターの説得■
F機関は、英領マレーのアロースターに最初の陣地を獲得するが、ここでもたらされた些細な情報が、後にインド史をも塗り替えることになる。 日本軍が快進撃を続ける中、その地方に取り残された英軍の一部隊があった。イギリス人将校一人のほか、兵士は全員インド系だという。
そこで藤原機関長とプリタムシン翁は、車にインド国旗を付けて、敵陣に乗り込み、イギリス人将校に投降を要求。将校は日本軍に包囲された 現状を知り、抵抗を諦める。 配下のインド人兵は、糸車の描かれたインド国旗を見て、愕然としていた。そして、藤原機関長はその場で演説を始める。

「諸君!私はインド人将校との友好を取り結ぶ為に来た日本軍の藤原少佐である」
この言葉がヒンドゥー語に訳されると兵士たちは、どよめいたという。そして完全な武装解除が行われたが、その際、率先して兵士に指令を出 す一人のインド人将校の姿が藤原機関長の目に留まった。
その人物こそ、INA(=インド国民軍)の創設者となる歴史的人物モハーンシン大尉であった。この時、運命の歯車が少しでも狂っていたら、 シンガポール攻略もインパール作戦も形を変えていただろう。

■インド兵を感動させた昼食会■
アロースターの町は、権力の空白で風紀紊乱が著しかった。 インド人やマレー人の不逞分子がシナ人商店や家を襲って、財産の収奪を始めていたのだ。 町に入った藤原機関長は、惨憺たる光景を重く見て、モハーンシン大尉に治安維持を取り仕切るよう申し出る。驚いたのは当の大尉だ。昨日まで敵だった外国人に警備を 任せるとは…藤原機関長はこう述懐している。
「私は絶対の信頼と敬愛を得ようとすれば、まず自ら相手にそれを示す必要があると信じた」インド人兵にとって、 白人に代わってやってきた日本人は信頼に値するアジアの仲間であった。

それは藤原機関長が何気なく開いた昼食会で、いっそう鮮明 になる。12月17日、藤原機関長は、「IIL」メンバーやインド人将校、下士官全員を集めてささやかな昼食の機会をもった。テーブルにあがったのはインド料理だった。 藤原機関長本人によるとその昼食会は「インド人将校の間に驚くべき深刻な感動を呼んだ」という。 特にモハーンシン大尉は感激のあまり椅子から立ち上がりスピーチを始めた。

「戦勝軍の要職にある日本軍参謀が、一昨日投降したばかりの敗戦軍のインド兵捕虜、それも下士官まで加えて、同じ食卓でインド料理の 会食をするなどということは、英軍の中では、なにびとも夢想だに出来ないことであった。 藤原少佐の、この敵味方、勝者敗者、民族の相違を越えた、温かい催しこそは、一昨日来われわれに示されつつある友愛の実践と共に、日 本のインドに対する誠意の千万言にも優る実証である」

他の兵士も満面に共感の意を現し、割れるような拍手を送ったという。 そして藤原機関長はフォークを使わず、素手でカレーを平らげた。 伝説が生まれた瞬間であった。

■山下将軍にINA創設を要請■
我が日本軍はマレー半島の各地に投降を呼びかける宣伝ビ ラを撒いた。そして、そのビラを大切に握りしめて投降してくるインド兵が後を絶たなかったという。 マレーに張り巡らされたインド系住民のネット ワークが、一方で日本軍の進撃を支えたのだった。余り知られていない史実である。
昭和16年の大晦日、藤原機関長はモハーンシン大尉から重要な 申し出を受ける。それはINA(=インド国民軍)の創設を願い出るものだった。重大な問題だ。要求の中には「INAを日本軍と同盟関係の友軍と見なす」 といった条文もある。
■INA(=インド国民軍)誕生■
しかし、全てを受け入れた藤原機関長は、その足で山下奉文将軍の司令部を訪れ、 認可を取り付ける。インド兵を信頼していたのはF機関だけではなく、山下将軍も同じだった。
12月31日。INAはマレー半島の片隅で産声を上げた。
そして、そのインド人待望の国軍は、シンガポール陥落直後に公然と姿を現すことになる。 昭和17年2月15日、シンガポールは我が軍によって陥落し、夕方には英軍のパーシバル将軍が降伏文書にサインして戦闘は終結する

(⇒パーシバル将軍に降伏を勧告している日本軍の写真。
山下大将を中心に藤原少佐の姿も見える)
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■5万人を前に歴史的な大演説■
翌々日、英軍のインド兵捕虜をF機関が代表して接収することになり、市内のファラパークにインド兵が集め られた。その数に、日本軍が驚愕する。交戦中、英軍のインド兵は多くて1万5000人と推定していたが、実際には5万人いたのだ。公園はインド兵で埋め尽くされた。

「親愛なるインド兵諸君!」
5万人を前に藤原機関長は堂々の大演説を行う。
「シンガポールの牙城の崩壊は、英帝国とオランダの支配下にある東亜 諸民族のしっこくの鉄鎖を寸断し、その解放を実現する歴史的契機となるであろう」

満場の聴衆は熱狂状態に入り、言葉が翻訳される度に、拍手と歓声で言葉が継げなかったという。そして、こう続けた。

「そもそも民族の光輝ある自由と独立とは、その民族自らが決起して、自らの力をもって闘い取られたものでなければならない。 日本軍はインド兵諸君が自ら進んで祖国の解放と独立の闘いのために忠誠を近い、INAに参加を希望するものにおいては、日本軍捕虜としての 扱いを停止し、諸君の闘争の自由を認め、また全面的支援を与えんとするものである」

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そう宣言すると全インド兵は総立ちになって 狂喜歓呼した。40分にわたる大演説は、 INAにとって歴史的契機になると同時に、インド独立運動史に残る歴史的な宣言になったという。 fujiwara003.jpg(335548 byte)
■さよならF機関、そしてインパールへ■
昭和17年4月、藤原機関長は帰任の指令を受けて南方戦線から 離れることになった。送別の宴で藤原機関長は、INA将校から額に納められた感謝状を贈られる。
そこには「幾十万の現地インド人の命を救い、その名誉を守った」ことに対して最大限の感謝の言葉が綴られていた。そして翌朝、INA軍楽隊が吹奏する中、 藤原機関長の乗った飛行機はシンガポールの空に消えていった。
これをもってF機関は使命を終えた。 だが、置き土産は余りにも大きなものだった。祖国解放の国軍となったINAは、より強固な軍隊となり、日本の降伏 後もインド独立の精神的支柱となったのだ。
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■インパール作戦■
藤原機関長は、インパールで再びINAと巡り会う。 しかし、その戦場に、盟友のモハーンシン将軍(大尉から昇進)の姿はなかった。 戦時下のベルリンから来日を果たしたインド独立の英雄チャンドラ・ボースが全軍を率いるリーダーとして登場していたのだ。 インド北東部のインパール攻略戦で、藤原岩市参謀は地獄を見た。戦闘は悲惨な結果に終わるが、そこにあったINA の存在を忘れてはならないだろう。

その惨状は高木俊朗の『インパール』(文春文庫)などに詳しいが、膨大な資料を駆使して書かれた同書を含め、多 くの戦記本がINAの活躍について僅かにしか触れていない。なぜ、インパール作戦に踏み切ったのか?それはF機関をはじめ、わが日本軍がINAとの約束を 果たす為でもあった。
チャンドラ・ボースを筆頭にインド兵はビルマの山岳地帯で死力を尽くして戦い抜いた。日本にとっては悲劇的な戦いであったが、 決して無益な作戦行動ではなかった。この作戦を戦い抜いたことでINA兵士は、インド国民から熱狂的に支持されたのだ。その事実は、大東亜戦争の本質を明かすものである。

■巨大な城塞に響いた独立の声■
インパール作戦でマラリアに冒された藤原岩市参謀は、病 床で祖国敗戦の報せを聞く。この時、自決した何人もの同志がいた。そして、共に戦った仲間の多くが散華していた。生き残った藤原参謀にも過酷な運命が待ち受けていた。
軍事法廷に呼び出されたのだ。
その法廷はインドの首都デリー。出発の前夜、藤原参謀は隠し持っていた青酸カリを棄てた。ある決意を胸に秘めていたのだ。「わがインド工作は 単なる謀略ではない。陛下の大御心に添い、建国の大理想を具現すべく身をもって実践したことを強調しなければならない」

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デリー市内のレッド・フォート(旧ムガール王朝の城・上の写真)に収容された藤原参謀は、裁判で主席弁護士を務めるデサイ博士から、そっと囁かれる。
「インドの独立は程なくまっとうする。そのチャンスを与えてくれたには日本である。独立は30年早まった。 これはビルマなど東南亜諸国共通である。 インド国民は、これを深く肝銘している。国民は日本の復興に、あらゆる協力を惜しまないだろう」
デサイ博士の言う通りだった。

藤原参謀はインドを離れると直ぐに、今度はシンガポールで再び尋問されるが、そこでも罪に問われることはなかった。 戦時下でも武器を持たずに行動 していたことが参謀を救ったのだ。英軍の尋問者は最後に、こう言った。
「貴官に敬意を表する。自分はマレー、インドに20数年勤務して来た。しかし、現地人に対して貴官のような愛情を持つことが遂に出来なかった…」
そして藤原参謀は、自衛隊創設と同時に入隊し、陸将を務めた後、昭和61年に世を去る。

■モハーンシン将軍との再会■
藤原参謀と厚い友情で結ばれたモハーンシン将軍とは、昭和29年にインドを訪問した時に再会している。 将軍と一緒にシーク教徒 の聖地ゴールデン・テンプル(黄金寺院)に招かれた英雄は、万を超える群衆から歓迎を受け、盛大な式典が行われたという。現地の新聞には大きな 見出しが踊っていた。「INAの産みの親フジワラ元帥がゴールデン・テンプル往訪」
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★英国の植民地政策は、植民地の民衆に対して人間としての視点を全く欠いた政策であった。だからこそ、そこを衝いた日本軍のマレー作戦は成功したと 言えよう。藤原少佐に対し英国尋問官が述べたという一言が、このことを象徴的に表している。日本は東南アジアを侵略したと言う一言で片付けている歴史観は、全く的外れと言ってよい。
インド人から 日本がその独立に寄与したと言われるならば、素直にそれを受け止めていいのではないか。 こうした歴史を、今の日本では教えていない。藤原岩市氏のご冥福をお祈り致します。(完)