【「耳寄りのお話」ー「ハワイ第100大隊訪問記」】のページ





●●ハワイ第100大隊訪問記●●
★平成18年に「ハワイ真珠湾慰霊の旅」というツアーがあり、 日系二世部隊・第100大隊のクラブハウスを訪問し、ご健在の老兵の皆様と交流する機会がありました。
日本人の両親を持ち、真珠湾奇襲後に あくまで米国人として、欧州戦線で大活躍した日系二世部隊の活躍をレポートいたします。

(⇒写真はハワイ・ホノルル市内にある第100大隊のクラブハウス)




●日系米兵の二つの戦い●

人種偏見をはね返すには、戦場で勇敢に戦い、アメリカ のために血を流すしかない、と彼らは信じた。

■1.フランスに現れた「日本兵」■
1944年10月、ドイツとの国境近くにあるフランスの小さな町ブリエアに住むレイモン・コラン医師は、米軍の飛行機の音 を聞きながら、「明日こそは」とドイツ軍からの解放の日をもう6週間も待っていた。

 そんなある日、コランが2階にいる時、「ボッシュ?」と階下から叫ぶ声が聞こえた。それはフランス人がドイツ兵を陰で 憎しみを込めて呼ぶ言葉だった。待ち望んでいた米兵が、敵兵を捜す声に違いない。コランは喜びに浮き立って、一気に階段 を駆け下りた。だが、そこで見た光景にコランは驚きのあまり凍りついた。なんと二人の「日本軍の兵隊」が銃を構えている ではないか。


 日本はドイツの同盟国だ。待ちに待った米軍どころか、 ブリエアは地球の反対側からやってきた日本兵の手に陥ち たのか。新たなる恐怖の占領か。ああ神よ!

すると、「日本兵」の一人がニッと白い歯を見せ、自分の胸 を親指で指して「ハワイアン」と言った。それでもコランが何 だか分からずにいると、笑顔で握手を求め、コランの肩を抱い た。

「日本兵」たちはドイツ軍を追って、すぐに去っていった。翌 日からは白い顔のアメリカ兵がやってきた。

(⇒写真はハワイ米軍博物館に掲示中のもの。イタリア・ドイツ戦線で活躍中の二世部隊が映っている。)

■2.「私生児大隊」■
この「日本兵」とは第100大隊に所属するハワイ出身の日系米兵だった。真珠湾攻撃の約1年前から選抜徴兵制が始まっ が、ハワイでは人口の4割が日系人である。徴集された兵も約半数が日系青年だった。

彼らが入営する時は、義理のある米国に恩を返すときだと、親たちは盛大に祝った。徴集兵が出発する駅では、「祝 入営 ○○君」と日本語で書かれたのぼりが何本も風にひらめいて、その先に星条旗がなかったら、日本国内の光景と見間違えたろ う。

(⇒写真はホノルル市内のハワイ米軍博物館でこの中に二世部隊の活躍が誇らしげに展示されている。)

しかし日本軍による真珠湾攻撃の後では、日系米兵だけが本土に送られた。もし日本軍がハワイに上陸し、米軍の軍服を着 込んで侵入されたら、日系兵と見分けがつかない、という心配からだった。ハワイから送られた日系米兵1、432名は「第 100大隊」とされた。通常は師団−連隊−大隊という構成になるはずが、第100大隊には親となる連隊がなかった。引き 取り手となる連隊がない「私生児大隊」に、日系兵たちは不安と不満を隠しきれなかった。

(⇒写真は日本からのツアー一行を第100大隊のメンバーが出迎えてくれた時のスナップです。)


日系兵たちは英語と日本語とハワイ語の入り混じったひどい英語を話したので無教養に見えたが、実は大半が高卒で、大学 入学者も12%いた。彼らが家族に書き送る英語の手紙は文法に適ったもので、検閲係の白人将校を驚かせた。大隊の知能指 数は平均103で、110以上なら士官学校行きである。白人なら将校になるはずの兵が多数いたのである。しかし第100 大隊の将校はほとんど白人で固められていた。

(⇒クラブには第100大隊全員の写真を掲げている。)

第100大隊は、北部のウィスコンシン州、続いて南部のミシシッピー州で訓練についた。銃機関銃を据える時間は陸軍の 平均が16秒だが、彼らは5秒という驚異的な数字を出した。平均身長160センチと子どものような体格なのに、フル装備 のまま1時間5.3キロのペースで8時間ぶっ続けに歩いた。普通なら1時間に4キロがせいぜいである。

(⇒等身大の軍服姿の隊員の写真が玄関で迎えている。)

過酷な演習の合間に、彼らは日系人として米国のために戦う意義を語り合った。「俺たちは二つの戦いを戦っている。アメ リカに代表される民主主義のためと、そのアメリカに於いての俺たちへの偏見差別とだ」 人種偏見をはね返して、対等なア メリカ市民としての立場を得るためには、戦場で勇敢に戦い、アメリカのために血を流すしかない、というのが、彼らの思い であった。

(⇒写真は、第100大隊の戦死者全員の名簿。中には朝鮮戦争時の戦没者もある。)

■3.日系人たちの誇り■
 第100大隊が前線に出る望みもないまま、訓練に明け暮れ ていた1942年10月頃、陸軍の上層部では日系の志願兵による部隊編成を認めるかどうかの議論が進められていた。日系市民 協会からは、志願兵部隊編成の請願が出されていた。

 この頃、本土の日系人12万人が収容所に入れられていた。特にアメリカ生まれの二世たちは、米国籍を持っていながら、 日本人を親に持つという理由だけで、強制収容されていたのだ。多くの日系青年たちは、前線に立つことで祖国への忠誠を証明 したいと思っていた。

(⇒写真は第100大隊設立六十周年記念式典のもの。)

陸軍参謀総長ジョージ・マーシャル大将は、「人種のいかんを理由にこれ以上アメリカ市民権を圧することは無謀というも のである。強制収容でその限界までやったのではないか。もう沢山だ。」とのメモを残している。

 また日本軍が、この戦争を人種的偏見から出た人種戦争である、とのプロパガンダを流しているのに対抗して、日系人が米 軍として戦う事は有効なカウンター・プロパガンダとなる、との考えもあった。

(⇒写真は第100大隊クラブの歴代会長の写真。)

こうした考えから、1943年2月1日、ルーズベルト大統領が日系志願兵による第442歩兵連隊の編成を発表した。当初、 ハワイ諸島での募集人員は1500人だったが、1万人を越える日系青年が応募したため、すぐに募集枠を2600人に拡大 した。「一旦嫁したら夫の家こそわが家」という日本人の伝統的精神からも、アメリカのために戦うことにためらいはなかっ た。
(⇒写真は第100大隊旗の前で井熊さん。リメンバー・パールハーバーの文字が見えにくいが、上部のリボンに表示していた。 当初は、下部のリボンに大文字で表示していたのだという。)

3月28日、ハワイ全島から集まった2686名の志願兵の ための壮行会がホノルルのイオラニ宮殿前で盛大に行われた。当日の地元紙はこう報じた。

 イオラニ宮殿の周りを埋めた1万5千〜7千ともいわれるかつて見たこともない人の数に驚いているだけではない。 ・・・最も重要なのは見送りの家族や友に見られる明かな誇り----若者たちが国と連合国のために戦う愛国的役目を 託されたことへの誇りである。

(⇒写真は日本からの訪問団とクラブメンバーの交歓会のスナップ。)

■4.「ジョー高田君戦死す」■
1943年9月22日、第100大隊はイタリア南部のサレルノに上陸した。1年と10ヶ月以上も待たされてのようやくの実 戦配備であった。彼らはサレルノに上陸した19万の連合軍将兵のごく一部であったが、従軍記者たちの注目を集め、ニュー ヨーク・タイムズ紙は「日系米兵−イタリア戦でナチと戦闘」と報道した。

(⇒写真は双方が自己紹介をしたが、彼らは既に日本語はほとんど話せなかった。)


9月29日、雨の中を北上しつつあった第100大隊は最初の敵に遭遇した。突如、敵の機関銃掃射を受けたのである。さ らに砲弾も降り注いだ。

自分の身の危険を全く顧みることなく、タカタ軍曹は小隊の先頭に立ち、敵の側面へと導いていった。彼は機関銃 手の位置を確かめんと故意に身をさらし、敵の砲撃で致命傷を負った。傷ついた後、数分しか命がなかったにもかか わらず、タカタ軍曹は副小隊長に敵の位置を知らせんとした。

(⇒壁には第100大隊の中で叙勲のメンバー全員の写真を掲げてある。)

日系米兵で最初に戦死し、殊勲十字章を得たジョー・タカタの感状の一節である。

「ジョー高田君戦死す 元朝日野球団のスター」と、ハワイの日本語新聞は見出しを掲げた。高田は24歳、地元のアマチュ ア野球のスター選手として、日系社会では有名であった。妻のフローレンスとの新婚生活が2ヶ月に満たないうちに、タカタ は出征した。

「ジョーは国のために死にました」と若き未亡人は記者に語った。父親はこの未亡人を連れて役所を訪れ、毅然とした誇りの 表情をたたえて、白人の役人に香典を「赤十字に」と寄付した。以後も日系兵の犠牲が出るたびに遺族がこの光景を繰り返すよ うになった。

(⇒クラブのメンバーも80歳を超え、人数も少なくなった。)

■5.ファナティックなオリエンタル・ソルジャー■
ローマへの進軍途上で最も激烈な戦闘が行われたのが、カッシーノであった。ドイツ軍はここで連合軍の進撃を止めようと、 強固な防御線を築いていた。最初に挑戦した2個師団はほとんど全滅した。第100大隊もほとんど同じ地点からの攻撃を命 ぜられた。
ラピド河の上流のダムが爆破され、一面泥に埋まった150メートルもの川原を地雷を避けながら前進する。身を隠すもの の何もない処に猛烈な砲火が降り注ぐ。多数の死傷者を出しながら、なんとか渡河に成功したが、横に並んだ他の部隊がこと ごとく渡河に失敗して、引き上げざるを得なかった。

(⇒写真は93歳で今尚ゴルフに興じている元判事さん。)

カッシーノは結局、2度の空爆と4回の総攻撃により、4ヶ月後に攻略できた。第100大隊のA中隊は170余名だった が、この戦いに生き残ったのはたった23名であった。「僕はハヤシ家を代表してお国のために戦えることを心から名誉に思っ ています。」と、両親への最後の手紙に書いたドナルド・ハヤシ伍長(24歳)も、ここで戦死した一人である。

 わが国とファナティック(狂信的)に戦っている敵国からの移民の子孫、といってもまだ2代目だが、これら筋骨 たくましいオリエンタル・ソルジャーは、同じようなファナティックさで今やわが国のために戦っている。

(⇒写真は別れを惜しむスナップ。左が当時の会長)

後に第100大隊と行動をともにしたUPの記者のこの記事は全米各地の新聞に掲載された。しかし、勇猛果敢な戦いぶり をみせる日系兵たちは、同時にこんな思いを家族への手紙で吐露していた。

 ある町を占領したとか、ある高地を取ったと新聞で読むごとに、覚えておいて下さい。そのたびに幾人もの青年の 命が消えたということを。忘れないでください、そのための戦いが身の毛のよだつ悪夢だということを。それは共に 笑い眠り冷や汗を流した友を失うことなのです。友というより、血を分けた兄弟以上とさえいえる戦友が目の前で死 んでいく。想像を絶する傷を受け、最後の息を吐くまで呻き祈ろうとする。数分前までは一緒に笑っていた友がです。 (M.ツチヤ)


■6.スパーブ(並はずれて優秀)という一言■
日系の志願兵からなる第442連隊は約一年の訓練を終えて、6月10日、第100大隊とローマ北方で合流し、その配下の 一大隊とした。本来なら第一大隊と改称する処だが、上層部の配慮で、戦功に輝く第100大隊の名前はそのままとされた。

 連隊は海岸沿いに北上を続けたが、ベルベデーレ町で敵の猛烈な砲火に釘付けになった。この時、第100大隊は東に大き く迂回して町の北の高地に出て、敵の背後から奇襲攻撃をかけ、わずか3時間で敵を蹴散らした。敵の死者80余名、捕虜65 名に対し、第100大隊はわずか4名の戦死と7名の負傷者であった。あわてた敵はジープ21両などを置き去りにして逃げ ていった。第100大隊は部隊として最高の栄誉である大統領殊勲感状を3度も得ているが、その最初がこの戦いであった。

(⇒写真はハワイ米軍博物館内に展示中の日本軍の武器の展示コーナーで、ピカピカに磨いて展示していた。)
北イタリアの重要戦略拠点であるリボルノ城の入城に際して、第442連隊を統轄する第5軍司令官のマーク・クラーク中将 は、自らのジープのすぐ前に第100大隊を進ませた。それまでの戦功に対する労りの配慮である。また海軍長官ジェームス ・フォレスタルや英国王ジョージ6世(現女王の父上)が戦場視察に訪れた時は、クラーク司令官は第100大隊の日系兵を 閲兵式に出させた。戦闘の真っ最中だと連隊長は抗議したが、司令官が第100大隊でなければならないと頑として言い張っ たため、サカエ・タカハシ大尉が兵の一部だけを伴って参加した。

参謀総長だったマーシャル将軍はその伝記で日系兵の働きに ついて、こう述べている。
スパーブ(並はずれて優秀)という一言が彼らを言い表 して余りあろう。多数の死傷にめげず、まれな勇気と最高 の闘志を見せた。ヨーロッパ戦線の彼らについて言葉を尽 くすことは不可能というものだ。皆、彼らを欲しがった。
当初、実際に戦線に投入するかどうか軍司令部が迷った日系 部隊は、いまやすべての司令官が欲しがる存在になっていた。

■7.この偉大な共和国がよって立つもののために■
大勢が決したイタリア戦線から、日系部隊をフランス戦線に 回せ、との要請があった時には、クラーク司令官はずいぶん渋っ たという。第442連隊は9月30日、マルセーユに上陸し、 北上してドイツ国境近くのブリエアを解放したのが10月18 日、本編冒頭の光景である。この後、敵に囲まれて窮地に陥っ た別の大隊を、連隊の三分の二が死傷するという大損害を受け ながら救出し、大統領殊勲感状を与えられた。ヨーロッパ戦線 は翌1944年5月7日に終わったが、第442連隊は数々の個人 勲章に加え、部隊として7つの大統領殊勲感状を受け、「アメ リカ戦史を通して最も多数の勲章を授かった部隊」となった。

1946年7月15日、時の大統領ハリー・トルーマンはホワイ ト・ハウスの芝生で第442連隊を整列させ、居並ぶ陸軍長官 や軍高官の前で7度目の大統領殊勲感状を自ら授与した。ニュ ーヨーク・タイムズは「トルーマン、2世ヒーローに叙勲」と の見出しで、それまでに帰還した数々の部隊で、大統領からじ きじきの名誉を受けた唯一の部隊であると報じた。トルーマン はこの時、こう述べた。

君たちは世界の自由諸国のために戦った。・・・君たち は今からそれぞれの家族のもとへと帰って行く。君たちは 敵と戦ったばかりでなく、偏見と戦い、そして勝った。そ の戦いを続け、勝ち進んでくれたまえ。いかなる時代にも 人民の福祉のため、と憲法でうたっているこの偉大な共和 国がよって立つもののために。

大統領の言葉通り、日系人たちは偏見との戦いを続けた。終 戦から7年目の1952年、日本移民一世の市民権取得を阻んでき た移民帰化法が改定された。中心になったのは第442連隊で の戦歴を誇る二世指導者たちであった。老いた父母にアメリカ 国民としての権利を勝ち取ったのは、2世の息子たちが流した 血であった。

ダニエル・イノウエは第442連隊で片腕を失ったヒーロー として、日系で最初の上院議員となり、かつての日系人の強制 収容が繰り返されないよう緊急拘束撤廃法案を提出した。小隊 長として負傷したスパーク・マツナガ中尉も、ハワイ州からの もう一人の上院議員となった。
人種差別は「この偉大な共和国がよって立つもの」すなわち、 アメリカの大義たる自由と人権に悖る恥部であったが、それを はね返したものこそ、日系兵たちの生命と誇りを賭した戦いぶ りであった。(完)

(国際派日本人養成講座から参照させていただきました。)


●「参考資料1」(資料編1〜5はフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)参照)
【日系人部隊の編成】

○アメリカ軍は、日本軍のハワイ侵攻及び本土進攻を恐れており、その際の日系人社会の動向を不安視して いた(後に日本海軍の潜水艦によるアメリカ本土への砲撃が行われている。)ことなどから、1942年6月、 在ハワイの日系二世の陸軍将兵、約1,400名は「ハワイ緊急大隊」に編成され、ウィスコンシン州に送られた。 同地のキャンプ・マッコイで部隊は再編され、第100歩兵大隊(100th infantry battalion)と命名される。 大隊長以下三人の幹部はアメリカ人だったが、その他の士官と兵員は日系人で占められていた。16名ここ で部隊は訓練を重ね、1943年1月にはミシシッピ州のキャンプ・シェルビーに移駐する。これ以前にも、既に 3,500人の日系人がアメリカ軍でさまざまな任務に当たっていた。

○第二次世界大戦の戦争目的として、日本は「アジアの白人支配からの打倒」を謳い、アメリカでの日系人の 強制収容を白人の横暴の実例として宣伝していた。アメリカはそれに反駁する必要に迫られ、日系人の部隊を 編制することになった。また、高い士気を持った第100歩兵大隊が、軍事訓練においてひときわ優秀な成績を あげたこともこれを後押しした。

○1943年2月には、日系人による連隊規模の部隊が編制されることが発表され、強制収容所内などにおいて志願兵 の募集が始められた。部隊名は第442連隊であるが、歩兵連隊である第442連隊を中核に砲兵大隊、工兵中隊を 加えた独立戦闘可能な連隊戦闘団として編成されることとなった。ハワイからは2,600人、アメリカ本土の強制 収容所からは800人の日系志願兵が入隊した。本土の強制収容所からの入隊者が少ないのは、その強制収容所に おける親日派・親米派の対立や境遇が影響していたが、ハワイではまるで事情が違い、募集定員1,500人の6倍 以上が志願したため、定員が1,000人増やされた。なお、徴兵年齢(18-39才男性)の日系人人口は、ハワイで 23,000人強、本土では25,000人程度で大差はなかった。

●「参考資料2」
【テキサス連隊の救出】

○1944年10月24日、第34師団141連隊第1大隊(通称:テキサス大隊 テキサス州兵により編制されていたた め)がドイツ軍に包囲されるという事件が起こった。彼らは救出困難とされ、「失われた大隊」 (Lost battalion) と呼ばれ始めていた。10月25日には、第442連隊戦闘団にフランクリン・ルーズベルト 大統領自身からの救出命令が下り、部隊は出動した。休養が十分でないままの第442連隊戦闘団は、ボージュ の森で待ち受けていたドイツ軍と激しい戦闘を繰り広げることとなる。部隊の攻撃は激しく、隊員たちは バンザイを叫んで攻撃を繰り返した。

○10月30日、ついにテキサス大隊を救出することに成功した。しかし、テキサス大隊の211名を救出するために、 第442連隊戦闘団の約800名が死傷している。救出直後、442部隊とテキサス大隊は抱き合って喜んだが、大隊の バーンズ少佐が軽い気持ちで「ジャップ部隊なのか」と言ったため、442部隊の一少尉が「俺たちはアメリカ陸軍 442部隊だ。言い直せ!」と掴みかかり、少佐は謝罪して敬礼したという逸話が残されている。

○この戦闘は、後にアメリカ陸軍の十大戦闘に数えられるようになった。また、失われた大隊救出作戦後、第一次 世界大戦休戦記念日(11月11日)にダールキスト少将が閲兵した際、集合した戦闘団を見て、「部隊全員を整列 させろといったはずだ。」と不機嫌に言ったのに対し、連隊長代理ミラー中佐が「目の前に並ぶ兵が全員です。」 と答えたという話が残っている。これは第36師団編入時には約2,800名いた兵員が1,400名ほどに減少していたた めである。

●「参考資料3」
【叙勲】

○欧州戦線での戦いを終えた後、第442連隊戦闘団はその活動期間と規模に比してアメリカ陸軍史上でもっとも多く の勲章を受けた部隊となり、歴史に名前を残すことになった。特にその負傷者の多さから、名誉戦傷戦闘団 (Purple Heart Battalion)とまで呼ばれた。戦闘団は総計で18,000近くの勲章や賞を受けており、その中には 以下のようなものも含まれている。

■名誉勲章(議会栄誉章) 1
(アメリカ軍における最高の栄誉。セラヴェッツァ近郊での戦いで数々の殊勲をあげ、1945年4月5日 に友軍をまもるために、投げ込まれた手榴弾の上に自らの体を投げ出して戦死したサダオ・ムネモリ上等兵が受章。 第2次世界大戦における名誉勲章の授与数は464、そのうち殊勲十字章から格上げされた20とあわせた21の名誉勲章が442連隊 に与えられている)
■陸軍殊勲十字章 52
(このうちの20に関しては、2000年6月に再調査の上で名誉勲章に格上げされた)
■銀星章 560(複数回獲得を表す樫葉の追加28)
■勲功章 22
■陸軍軍人章15
■銅星章 4000(+樫葉追加が1200)
■名誉戦傷章9486(モンテカッシーノで続出した凍傷患者に対する授与が多い)
■大統領部隊感状 7枚
(トルーマン大統領が自らの手で連隊旗に、第442連隊としては7枚目となる「大統領部隊感状」 を括り付けた。これは合衆国陸軍では初めての出来事。7枚という数字は合衆国陸軍の最多受賞部隊でもある)
格上げが多いのは、当時日本と戦争中のアメリカで日系人部隊を評価することにためらいがあったが、戦後そのしがらみが なくなり再評価されたためと、1960年代に公民権法が施行され、それまでの人種差別政策が是正されたためである。

●「参考資料4」
【日系部隊の戦後】

○日系人部隊の輝かしい活躍と目覚しい勲功とは裏腹に、戦後のアメリカ白人の日系人への人種差別に基づく 偏見は変わることがなかった。部隊の解散後、アメリカの故郷へ復員した兵士たちを待っていたのは 「ジャップを許すな」「ジャップおことわり」といったアメリカ人たちの冷たい言葉であり、激しい偏見 によって復員兵たちは仕事につくこともできず、財産や家も失われたままの状態に置かれた。

○このような反日系人的な世論が変化するのは1960年代を待たなければならなかった。1960年代のアメリカにおける人権意識、 公民権運動の高まりの中で、日系人はにわかに「模範的マイノリティー」として賞賛されるようになる。

○442連隊戦闘団は1946年にいったん解体されたが、1947年には予備役部隊として第442連隊が再編制され、ベトナム戦争 が起こると、1968年には不足した州兵を補うために州兵団に編入された。現在、第442連隊は解体されているが、連隊隷下 部隊のうち第100歩兵大隊が予備役部隊として残っている。部隊は、本部をハワイのフォートシャフターに置き、基地をハワイ、 アメリカ領サモア、サイパン、グアムなどに置いている。部隊は統合や再編制を繰り返してきたにもかかわらず、依然として 主力を日系人を含むアジア系アメリカ人がしめていることが興味深い。

○2004年8月に、第100歩兵大隊は第29独立歩兵旅団(ハワイ州兵)の大隊機動部隊の一つとして、イラクにおける任務 のために活動を再開した。部隊はハワイのスコーフィールド・バラックス (Schofield Barracks) にて動員され、テキサス 州のフォート・ブリス (Fort Bliss) で2004年一杯訓練を受けた。その後、ルイジアナ州のフォート・ポーク (Fort Polk) で練成度を確認され、2005年3月よりイラクで任務についている。

○なお、レーガン大統領が、強制収容所の被収容者を含む日系アメリカ人のみによって構成され、ヨーロッパ戦線で大戦時の アメリカ陸軍部隊として最高の殊勲を上げた同団に対して、「諸君はファシズムと人種差別という二つの敵と闘い、その両方 に勝利した」と特に言及し讃えている。

●「参考資料5」
【主な二世部隊出身者】

ダニエル・イノウエ ハワイ州選出下院議員(1959年-1962年)、ハワイ州選出上院議員(1962年- )
スパーク・マツナガ ハワイ州選出下院議員(1962年-1976年)、ハワイ州選出上院議員(1977年-1990年)
サダオ・ムネモリ 名誉勲章受章者 他

●「参考資料6」(「Bridge of Hope」参照)
【陸軍最高位に昇ったシンセキ参謀総長】

ハワイの米国陸軍博物館にシンセキ氏の米軍内における昇進を誇らしく展示してあった。
オバマ次期米大統領は7日、シカゴで記者会見し、日系3世のエリック・シンセキ元陸軍参謀長(66)を 退役軍人長官に起用する人事を正式発表した。オバマ氏は、シンセキ氏が2003年の対イラク開戦をめぐり、 兵力の展開規模で当時のラムズフェルド国防長官と対立したことを念頭に、シンセキ氏が「兵士や帰還兵のために 立ち上がる勇気を備えていることは疑いの余地がない」と称賛、「この仕事に彼以上の適任はいない」と強調した。 一方、ベトナム戦争当時、戦闘中に負傷し、「名誉負傷勲章」を2度授与されたシンセキ氏は、帰還兵の支援に全力を尽くす意向を表明した。


【シンセキ参謀長・・日系三世軍人の栄光】
エリック・シンセキ氏は祖父が広島出身の移民で、真珠湾奇襲の翌年にハワイで生まれた。 カウィ高校を出て、ウェストポイント陸軍士官学校に進み、卒業後ジューク大学で英文学の修士号を取得した。さらに陸軍指令参謀大学と 国防大学で教育を受けた後に、ベトナム戦線へ出兵し二度負傷したという。
1990年代になって、彼は出世街道を邁進している。1996年中将に、翌年クリントン大統領に大将に任命され、ヨーロッパ中央司令官に就任。 99年遂に陸軍最高位の第34代参謀総長に就任した。シンセキ氏の叔父2人は第100大隊、1人は第四四二連隊で、子供の頃は夕食を囲みながら 戦争の話をよく聴いたと言う。

同じくハワイ出身で宇宙飛行士のオニズカ飛行士も子供の頃は日系部隊の活躍の話を聞いて育ったと言う。残念ながらチャレンジャー号の爆発事故で フロリダの空に散った。
このように二世部隊の活躍はその後の日系人社会に大きな影響を与えている。

★年配の皆様には、戦後アメリカ映画「二世部隊」をご覧になったご記憶があると思う。その記憶を辿りながら ハワイで第100大隊の老兵の皆様に出会って、感激しながらも、既に彼らは日本人ではないのですね。この事実に気がついた時、 何とも寂しい気がしました。
そして第100大隊はイラクに派遣されたといいますから、今尚現役の部隊なんですね。もちろん現役の将兵は日系の4〜5世で構成されているのでしょうが、これがアメリカなので しょう。 異国の世界で、日本人の心意気を遺憾なく発揮された日系二世部隊に敬意を表すると共に、二世部隊の戦没者の皆様のご冥福をお祈りいたします。(完)