【「耳寄りのお話」ー「台湾の統治について」】のページ


【日本精神溢れる台湾を訪ねて】
NHKのジャパンデビューの 番組が歴史の捏造としか思えない誤りを犯して批判されています。 NHKの番組制作の歴史認識に誤りがあるという確信を台湾旅行で得たのです。
その一端をご案内いたします。
■「植民地政策」
1895年日本は日清戦争で勝利して台湾を領有しました。日本政府は、初めての 植民地をどのような姿勢で治めていくのか閣議で議論しました。その結果、「内地の延長と考える」 という、世界に類まれな方針を立てたのでした。
当時の台湾は、清国の領有地であったのですが、清国政府は全島を治めきれていなかったといいます。西蕃と 呼ばれた七つの山岳民族が首狩り族として高地に生活していたのです。 日本政府は台湾統治の総督として当初軍人出身者を派遣しましたが、民生長官に後藤新平を据えて大 いに成果を上げました。新渡戸稲造や多くの人材を招いて登用したからでした。



■台湾総督府
この写真は今尚現役の台湾総督府の建物です。韓国 は韓国総督府の建物を植民地政策の象徴であるとして破壊しました。しかし、台湾は総督府の建物を大切にし ています。1905〜1945年の51年に渡る統治の間19名の総督が赴任しました。初代〜七代までの総督は治安維持 のために軍人出身者が、しかも大将クラスがその任にあたりました。
初代・樺山資紀、二代・桂太郎、三代・乃木希典、四代・兒玉源太郎、五代・佐久間 左馬太、六代・安東貞美、 七代・明石元二郎と大物が統治に当たりました。日本が台湾の経営にいかに力を入れていたかが良くわかります。

■第七代・明石元二郎総督とその御陵
歴代の総督は多くの業績を残したが、とりわけ明石総督は在任中は、台湾電力を設立し水力発電事業を推進、 滯貨事件を消解するため海岸線を建設、日本人と台湾人が均等に教育を受けられるよう法を改正(これにより 台湾人にも帝国大学への道が開かれたのです。李登輝元総統は京都帝国大学出身です。)、現在も台湾最大の 銀行である華南銀行を設立しました。台湾総督の次は総理大臣にと期待されていましたが、1919年(大正8年) 、明石は公務のため本土へ渡航中の洋上で病となり郷里福岡で死去しました。「もし自分の身の上に万一の ことがあったら必ず台湾に葬るように」との遺言によって、遺骸はわざわざ郷里の福岡から台湾に移され、 台湾の三板橋墓地(現林森公園)に埋葬されました。台湾人はこれに感動し、200坪の明石元二郎の御陵を 造ってこれに応えたのでした。如何に明石総督が台湾人から尊敬されていたか、という証でもあります。
戦後 中国人が渡来し、この御陵の上に居住するようになり、1999年現地有志により台北県三芝郷の福音山基督教墓 地へ改葬されました。日本の統治が、かくも台湾の人心を掌握していたという証左でもあります。

■六氏先生の遭難死とお墓
日本が台湾で学校教育をはじめたのは明治 28年7月。
台湾総督府開設から1か月も経たないという早さでした。
当時、文部省 学務部長心得であった伊沢修二は、初代の台湾総督の樺山資紀に、教育 を最優先すべきと具申し、 7人の志ある人材を連れて台湾にわたって、 芝山巌(現在は芝山岩・芝山公園) に学校を開設し教育を はじめたのでした。 悲劇は、翌年1月1日、伊沢の一時 帰国中(山田耕造を伴い台湾での教育従事者募集のため)に起こったのです。 新年祝賀のため総督府に向かった6人の教師に、日本統治に反対する勢力が襲撃したのです。 台湾の教育界の皆さんは、この6名の教師の死を、台湾の教育の原点として位置づけて、 日本式のお墓を立てて、今尚お参りしてくれています。
何よりも「内地の延長と考える」方針に沿って日本は 7名の教師を派遣したことは象徴てきな出来事で、無常にも遭難死されましたが、日本が台湾の経営に取り組んだ 第一歩が現地人を教育することであったことは誇らしいことです。
■山岳民族「生蕃」は「高砂族」へ
昭和天皇がまだ摂政宮の時、台湾を訪問しました。その折に「生蕃」と呼ぶのは気の毒ではないか。同じ日本 人なのだから・・・」と言って「高砂族」を呼ぶことを提案されたそうです。それ以来山岳民族の呼称が 「高砂族」となったと言います。如何にも昭和天皇に相応しい逸話だと思います。
山岳民族は9つの部族 が居て,お互い言葉を異にしていて争っていたのが、日本語を学んだことで意思の疎通が出来るようになったと 、高砂族の長老・周麗梅(故人)さんから直に話を聞いたことがあります。
それにしても欧米列強には、支配する植民地の民の気持ちに想いを寄せて、同じ国民だから・・と一部の部族の呼び方まで変えた・・という いうことがあったでしょうか?我々日本人は、かくも優しい天皇を戴けて誠に素晴らしいことではありませんか。
■高砂義勇隊の慰霊碑
先の大戦末期に兵力の不足を補うために台湾でも 募集されました。特にフィリピンの山岳戦で苦労した日本軍は高砂兵へ期待が大きかったのです。ジャングルの中の戦闘で 高砂兵の活躍は目覚しく、多くの将兵が彼らに助けられたといいます。戦後、高砂義勇隊の慰霊碑の建立に当たっては 彼らに助けられた将兵たちからの募金が集まり、写真の慰霊碑は李登輝さんの揮毫によるものですが、烏来に建立されたものです。
尚、蔡焜燦さんの著書「台湾人と日本精神」によると、「昭和17年以降台湾に志願兵制度が出来、最初の千名の募集に400倍の4十万人が 応募した・・」と書かれています(p94)が、高砂義勇隊も3000名の戦死者を出し、靖国神社に祭られています。



■東方工商専科学校(現在=東方技術学院)
台湾の南部・台南にある短期大学で、謝国雄先生が設立 されたものです。謝先生は国民党政府の文部大臣を歴任された方で、九州大学医学部を卒業され、李登輝先生たちと 戦後の台湾の経営にご苦労されました。この大学は何よりも「教育勅語の精神」で教育を行っていることで有名です
許先生は「日本精神のエキスを学生に教えておかねば日本を知らせることにはならない」と云われていました。
そして「日本からの来訪者には、教育勅語の漢訳、英訳、仏訳等を謹呈することにしている」と付け加えられていました。



【日本間】
大学内のある建物の十階には日本間があり、床の間の掛け軸は「天照皇大神」とあり、その下には「トーゴー・ビール」 と日本酒「乃木の誉」が並べられています。
云うまでもありませんが「トーゴー・ビール」はフィンランドの酒造メーカーが、日露戦争での日本の勝利に感動して自社ブランドのビールに 命名したもので、以来100年、オランダ資本になったとは言え、「トーゴー・ビール」は健在で、日本でも年間40万本ほど 輸入されていますが、あまり知られておりません。


【教育勅語の軸】
教育勅語の日本語による全文が掛け軸になって掛けられていました。北京語やフランス語の教育勅語の資料も 準備され提供されています。この学校の教育理念が教育勅語だからです。正に教育勅語で教育を受けられた謝国雄 先生の信念が表現されているのです。日本の学校にこのような日本間、教育勅語の間はあるでしょうか? 台湾の教育は日本内地の教育と同じであったので、謝先生のつくられたこの学校は、戦前と同じ教育勅語の理念をもって 今も教育が継承されているのです。日本ではこのような学校は、山梨県の日本航空学園のほかには残念ながら知りません。
【さざれ石】
校内には岐阜県から購入した「さざれ石」が置かれています。 もちろん日本の国歌「君が世」に想いを寄せているのです。謝先生の日本に対する、君が代に対する尊敬の念が示されているのです。 生徒に「さざれ石」を見せて、「君が代」の理念を説かれているのです。丸で、この学校は日本の学校ではないか、と一瞬思うのですが 残念ながらこのような学校は日本にはほとんど無いのです。
故謝国雄先生のお陰で、戦前の日本の教育が如何に素晴らしかったかを東方技術学院で実証してくれているのです。
■八田与一氏と烏山頭水庫
八田與一は1886年、金沢市に生まれ、東京大学・土木工学を卒業後、24歳の時(1910年)に台湾総督府 内務局土木課に技手として任官しました。当初は衛生工事を担当していましたが、28歳からは水利事業を担当、設計 工事の責任者として桃園の水利事業以降は第一人者として技師として認められることになりました。 56歳で亡くなるまでほぼ全生涯を台湾に住み、台湾のために尽くしました。彼の最大の功績は烏山頭水庫を造り 台湾の広大な不毛の大地を、大規模な灌漑施設建設によって穀倉地帯に変える壮大な事業を成し遂げたことであり 心から台湾を愛し、また台湾人に愛された男になったのでした。
【八田与一の銅像と墓】
烏山頭水庫を見下ろす丘に八田与一氏の銅像と夫妻のお墓があります。地元では神様なのです。八田技師は太平洋戦争の 最中の1942年、陸軍に徴用されてフィリピンに向かう途中、乗っていた船がアメリカの潜水艦に撃沈されて、この世を 去りました。(その遺骸は、操業中だった山口県の漁船によって、偶然網にかかり引き上げられた)
台湾の烏山頭水庫に埋葬されました。嘉南平野には60万人の農民が暮らしており、痩せた土地に水利に恵まれず、貧しい生活でした。 そこにダムを造って農業用水を供給しようという計画を立案したのです。そして見事にダムを造り、嘉南の荒野を 穀倉地帯に変貌させたのです。地元民にとっては彼は神様なのです。
【ダム本体の現風景】
日本と同じように台湾は地震が多発する土地柄なのです。 彼はコンクリートを使わないセミハイドロリックフィルダム(半射水式)でダムを造ったのです。 数年前の台中地震でもビクともしませんでした。そして八田与一氏が作った嘉南農田水利会は今も厳然と機能しているのです。 「烏山頭水庫」というハードウェアーと「三年輪作法による給水システム」というソフトウェアーが見事に嘉南平野に生活する 70万人の農家を豊かに導いたのでした。
【嘉南平野を網羅する水路】
右の写真に血管網のように赤く記されているのが嘉南平野を16000kmもの長さで網羅した水路です。 八田技師は烏山頭水庫の水量では嘉南平野を一気に潤すには不足であることに気付いていました。 そこで嘉南平野に隅々まで水路を張り巡らして、3分の1づつ均等に公平に水を行き届かせる仕組みを作り、3年輪作法 を教育しました。15万haの土地に住むすべての農民が、水の恩恵を受ける必要があり、そのためには、5万haずつに区画し、 水稲・甘蔗・雑作物を1年ごとに順次栽培していけば、どの地域も平等に水の恩恵を得ることができる灌漑方法を考え、 採用する事にしたのです。八田技師は、末端で水を利用する農民の立場に立ち、嘉南平野全体を考えていたのでした。
【八田家の家族】
右の写真は八田一家の写真です。8名の子供さんに囲まれて幸な 家族写真です。この写真は烏山頭水庫の堰堤に隣接して造られている八田記念館に掲げられています。
長男晃夫さんは昭和19年に東大を卒業すると海軍を志願、次男泰雄さんは台北高等学校に在籍のまま学徒動員で応召されていました。







【夫人が身投げした放水口】
八田技師は太平洋戦争の最中の1942年、陸軍に徴用されてフィリピンに向かう途中、 乗っていた船がアメリカの潜水艦に撃沈されて、この世を去りました。(その遺骸は、操業中だった山口県の漁船によって、偶然網 にかかり引き上げられた)3年後、戦争に敗れた日本人は一人残らず台湾を去らなければならなくなりました。烏山頭に疎開していた 妻の外代樹(とよき)は、応召先から戻ってきた子息と会った日の深夜(9/1)に、夫が心血を注いだ烏山頭ダムの放水口の 身を投げて後を追ったのでした。享年46歳であった云います。遺書には「みあと慕いて我も行くなり」とありました。


【5月8日は八田与一の命日】
台湾の、取分け嘉南平野の人たちにとっては、八田与一は荒地を肥沃な耕地に変えてくれた恩人であるだけでなく ご夫妻で台湾の土になってくれたことがたまらないのです。
戦後八田与一の銅像のみならず日本が造った記念物の総てを国民党が撤去させた 時、八田の銅像は密かに地元民によって隠されたと云います。そしてやっと昭和56年頃、元の場所に何時の間にか出現したと 云われています。
5月8日は八田家はもちろんですが、地元民総出で慰霊祭が行われています。この行事は永遠に続くことでしょう。 こうした地元民から愛される日本人が台湾に大勢居たのです。
■鎮安堂・飛虎将軍廟に祀られた日本軍人
「飛虎」とは戦闘機のことです。昭和19年10月12日、米軍の空軍部隊40機が飛来、これを中古のゼロ戦30機が迎え撃ったが、激しい空中戦の後、 敵機7機を撃墜したが、日本空軍機は半数が撃墜された。この戦闘を見つめていた当時17歳の呉省事氏によると、敵機に体当たりをしたゼロ戦が あったという。米軍機も墜落したが日本軍の飛行士は投げ出されて下半身だけが自分の畑に落ちてきたが、軍靴に杉浦と書かれていたという。 遺体は軍が引き取っていったが、その後毎晩のように亡霊が出るようになった。目撃者の口から幽霊の話が広まったので5坪の広さに廟を立てて毎日祈る ようになったといいます。
すると部落の稲作も豊作になり、豚や魚の養殖も順調、地域の人たちは報恩ために信者が増えて、線香の煙が絶えなくなった。 そのうち宝クジに当たる者が続出するにおよんで、1993年に3体のご神像を造った。このご神像を祀るために30坪の廟を新築した。 今、午前7時に「君が代」が、午後4時には「海ゆかば」が祝詞として奏上されているのです。
この3名の軍人は、杉浦茂峰海軍兵曹長、村田芳雄海軍少佐、三好禎介陸軍大尉であると判明しました。 その後飛虎将軍廟の評判が高くなって、ある日警察官がやってきて、何故日本人を祀るのか?と詰問されたが、呉省事氏は毅然として「日本人を祀って何が悪い。 お陰で地元民は豊作、豊漁で幸ではないか」と反論したといいます。

■潮音寺・バシー海峡での戦没者を慰霊する寺
台湾の最南端近くにはバシー海峡という流れの急な海峡があります。昭和19年以降、戦時中南シナ海で撃沈された200隻もの輸送船や軍用船などの多くの 日本船舶から流れ出した多数の遺体が海岸に漂着したといいます。地元の台湾人たちは一体一体を拾い上げて埋葬してくれたそうです。 戦後になって、多数の英霊が幽霊となって出没し、地元の人たちを苦しませたそうです。その中で偶然救助された日本人が居たのです。 中島秀次氏は昭和19年8月、乗船を撃沈されバシー海峡を12日間も漂流して南湾に流れ着き、手厚い看護で奇跡的に蘇生したのでした。 その後中島氏は曹洞宗の僧籍を経て日華仏教の交流に努めたが、戦没者慰霊に力を注ぎ、昭和52年から55年に渡って、第八次慰霊団まで、日・華・韓三国 の僧侶延べ数百人が卒塔婆を立て、慰霊法要を行ったといいます。
その後しっかりとした慰霊堂を建立したいと募金活動を行い、昭和56年8月に鉄筋コンクリート2階建て、延べ100坪の 慰霊堂が竣工したました。日華韓三国の僧侶数十人が参加して、盛大に法要が営まれ、当日晴天であったが読経が始まるや一天にわかに暗黒となり 、雷鳴が轟いた。英霊のご嘉納があったものか、幽霊はそれ以降はほとんど出なくなったといいます。
普段は無住のお寺ですから、慰霊祭のたびに関係者が潮音寺に出向くのですが、夜は怖いという話が伝わっていました。 右の写真は潮音寺の2階の本堂の風景です。


■龍山寺で出逢った老人の教育勅語の朗誦
龍山寺にツアーのメンバー16名ほどで立ち寄った時に、仲間の一人が昔の戦闘帽を被っていたのをみて一人のご老人が「君達は日本人か?」 と言って近づいてきました。「そうですよ」と答えると、直立不動になって「日本人なら教育勅語を知っているだろう?」と言いながら 朗々と教育勅語を朗誦し始めたのです。早速同行の仲間の一人がビデオをを回して録画しました。 実に懐かしげな態度で、恐らく70歳を超えておられると見えましたが、何十年ぶりに旧友に出逢ったごとき態度で、話しかけてきたのでした。 教育勅語は最後まで朗々と響き渡りました。このご老人は少なくも我々日本人に対して極めて友好的でしたから、日本統治時代の悪い思い出は 無いように見受けられました。右の写真の中央黄色帽のおじさん(黒ズボン)が教育勅語を朗誦してくれた方です。


○ここに挙げた幾つかの事例は、台湾に2回出かけて行って、 わずか2週間ほどの間に見た台湾のごく一部の見聞記にすぎません。しかし、少なくも日本人の先輩達が台湾 で行ってきた統治が、真に台湾のためになる統治をやってきた結果、多くの台湾の人たちから尊敬されている事実 を身を持って見聞しました。案内をしてくれた70歳代の台湾人が「確かに内地から来た日本人と現地の台湾 人の間に差別もあったには違いないが、多くの日本人が真実台湾のために働き、努力してくれたことは紛 れも無い真実であって、今、我々があるのは日本人のお陰です・・」と言ってくれたのです。

あと10年経つと、日本語世代、つまり日本語で教育を受けた世代は居なくなりましょう。今、NHKの放送がリ アルタイムに台湾に放映されていますが、日本語世代が居なくなれば、これも中止になりましょう。戦後の日本で は台湾や韓国での統治についてほとんど教えていません。多くの台湾人の皆さんが、例えば李登輝さん、 金美麗さん、黄文雄さん、蔡焜燦さん、と言った日本の教育を受けた皆さん方が、日本人 よ自信を持ちなさい!皆さんの先輩達は素晴らしいことをしてくれたのですよ!と異句同音に発言してくれて います。この10年で台湾も変わりましょう。この10年間に、日本語世代が居られる間に、台湾に出かけて行っ て、台湾統治の歴史を学ぼうではありませんか?

親日国の台湾を反日国として放映するNHKの放送を聴いているだけでは歴史の真実から目をそらされてしまいま す。忘れないで下さい。台湾は親日国なのですが、台湾を反日国にする陰謀が今、NHKまでも巻き込んで進行しているの です。理由は明らかです。中国はすでに台湾を併呑することを既成の事実としているのです。その計画の障害は 台湾が「親日国」であることです。従って台湾を「反日国」に仕立てることが必要なのです。その陰謀の一端をNHKが受け持 っているのです。NHKの専務理事に金田新氏が居ます。彼は平成18年まではトヨタ自動車の専務取締役でした。 そうです、トヨタまでが台湾を反日国にする陰謀に加担させられているのです。(完)