【「耳寄りのお話」ー「潜水艦ボーフィンと対馬丸」】のページ


★ハワイの真珠湾アリゾナ記念館に隣接して
「ボーフィン公園」 (潜水艦博物館)があります。
このミュージアムは日本人なら必見の価値があります。
いや見 なければいけない場所と言ってよいと思います。
大東亜戦争末期、沖縄から集団疎開の子供たちの乗った対馬丸を沈めた潜水艦が見られるからです。

米軍は潜水艦ボーフィン号を今にも発進できるかのように、ピカピカに磨いて展示しています。対馬丸 を撃沈した潜水艦ボーフィン号を現在「真珠湾攻撃の復讐者」として、戦艦「アリゾナ」の隣に展示 していると云うわけです。
アメリカの戦争文化がよく分かる場所です。
(⇒写真は「ボーフィン公園」潜水艦博物館の入り口)

■対馬丸撃沈事件の背景■
1941年12月にはじまったアジア太平洋戦争。 翌年の夏から日本軍は敗戦を重ねるようになり、1944年7月7日、ついにサイパン島が占領されました。 「サイパンの次は沖縄だ」と判断した軍の要請で、政府は奄美大島や徳之島、沖縄県の年寄り・子供・ 女性を島外へ疎開させる指示を出します。予定人数は、日本本土へ8万人、台湾に2万人の計10万人。 しかし県民の疎開はなかなか進みません。「勝つ、勝つ」を繰り返す軍の言葉に、沖縄が本当に戦場に なるのか判断がつかず、また周辺海域の危険をそれとなく知っていた県民にとって、船に乗ることは一 つの「賭け」でした。

7月19日、県は「沖縄県学童集団疎開準備要項」を発令し学校単位で疎開事務をすす めます。多数の兵士が沖縄に移駐し大量の食糧が必要になり、足手まといになる民間人を県外へ移動さ せることは急務だったのです。いっぽう子ども達は「ヤマトへ行けば汽車にも乗れるし、 雪も桜もみることができる」と修学旅行気分ではしゃいでいました。

(⇒写真は園内には様々な潜水艦にかかわる武器が展示されていているが、右の写真は日本軍の魚雷だという)



■対馬丸の出航と撃沈、漂流、救助■
対馬丸(6754トン)は、1944(昭和19) 年8月21日夕方、疎開学童、引率教員、一般疎開者、船員、砲兵隊員1788名を乗せ、同じように疎開者を乗 せた和浦(かずうら)丸・暁空(ぎょうくう)丸と護衛艦の宇治(うじ)・蓮(はす)を含む計5隻の船団を組んで 長崎を目指し出航しました。

(⇒写真は係留中のボーフィン潜水艦が見えるが、 見学者は中を見ることができる)



しかし翌22日夜10時過ぎ、鹿児島県・悪石島の北西10kmの地点を航行中、米潜水艦 ボーフィン号の魚雷攻撃を受け対馬丸は沈められてしまいました。建造から30年も経った老朽貨物船・ 対馬丸は航行速度が遅く、潜水艦の格好の標的だったのです。

(⇒写真はボー フィン号の甲板から、艇内に入る入り口で、日本語で「入り口」の掲示が見える)



ほとんどの乗船者は船倉に取り残されましたし、海に飛び込んだ人も台風の接近に伴う高波 にのまれました。犠牲者数1418名(うち児童775名を含む)(氏名判明者=2004年8月現在)。イカダにすがって漂流した人々は 、付近の漁船や海軍の哨戒艇に救助されたほか、奄美大島まで流されるなどして生き延びたのです。

(⇒写真はボーフィン潜水艦の内部で、今にもスイッチを入れると動きそうな雰囲気で、 魚雷発射管も見える。)



■「対馬丸」のその後■
救助された人々には「箝口令(かんこうれい)」がしか れ、対馬丸が撃沈された事実を話すことを禁じられました。
犠牲者や生存者に関する詳細な調査も行われ ず、沖縄に残された家族に正しい情報が伝わることはありませんでした。

(⇒写 真はボーフィン潜水艦の船橋に書かれた日章旗である。これを見るとこの潜水艦が日本の戦艦を沈めたのはわ ずか4隻で、34隻は民間の船舶を沈めた証であり、それを誇っている。この中の1隻が対馬丸である。日本 帝国海軍にはこのような戦果を誇る慣習はない。)

また対馬丸事件の後、10月10日には那覇を中心に大空襲があり、翌年の地上戦では県民の4 人に1人が犠牲になるなど、さらなる戦争被害を被ったため、対馬丸撃沈事件が知られるようになったのは戦後 しばらく経ってからでした。大人が起こした戦争の為に理不尽にも幼い子どもたちがその犠牲になったことか ら、戦後「“学童疎開船”対馬丸の悲劇」として語られるようになっていきました。

(⇒写真は、対馬丸を含め民間の船舶を沈めて国際法違反を誇っている潜水艦ボーフィン 号の全景です。)


対馬丸が撃沈された事件については緘口令にもかかわらず、疎開先から来るはずの手紙がな い事などから、たちまち皆の知るところとなった。このため一時は疎開に対する反発などがあったが、1944年 10月10日の那覇市への空襲があってからは疎開者が相次いだ。軍も沖縄へ兵力を輸送する任務に就いた軍艦を 疎開任務に投入し、1944年9月に潜水母艦迅鯨が疎開学童を鹿児島へ輸送した。沖縄からの疎開船178隻中、 アメリカ海軍潜水艦の犠牲になったのは対馬丸のみであったという。

(⇒写真はボーフィン公園内に展示している日本帝国海軍の人間魚雷「回天」です。)


■潜水艦博物館■
この潜水艦博物館には、米国に限らず広く潜水艦に関する情報 を展示している。と言っても米国以外の情報は日本軍のものしかないが・・。



(⇒右の写真は人間魚雷「回天」の説明版で、アルファベットで「KAITEN」の文字が見える。)




■博物館の内部の展示物■
写真は米軍潜水艦の模型と思われる。







■博物館の内部の展示物■
日本帝国海軍の人間魚雷「回天」の出港時の写真も展示していた。








■博物館の内部の展示物■
硫黄島陥落の新聞も展示してあった。








■真珠湾攻撃の本には・・■
日本軍の真珠湾攻撃を記載した本に、戦艦アリゾナからわずか200m先に停泊していた病院船ソレースには 1発の銃弾も攻撃しなかった・・と書いてありました。それどころか、日本軍は真珠湾の石油タンクもドックも攻撃しなかったのです。
・・・Japanese flyers did not bomb the Solace.









■「対馬丸記念館」■
沖縄県那覇市に「対馬丸記念館」があります。
このサイトには、幸い救助された子供たち(当時)の体験談も読むことが出来ます。
対馬丸の情報は、主としてこのサイトから参照させて頂きました。
http://www.tsushimamaru.or.jp/

財団法人対馬丸記念会
那覇市若狭1-25-37
TEL 098-941-3515
FAX 098-863-3683



★去る大戦で日本は甚大な犠牲を払いました。その中にあって沖縄からの学童疎開の生徒が 乗っていた対馬丸の悲劇も忘れてはならないことだと思います。平和になってハワイを訪れる日本人は多いが 真珠湾まで足を運ぶ日本人は少ないと聞きます。ハワイに行くことがあったら、ぜひ真珠湾に足を運んで、 誇らしく展示しているボウフィン潜水艦を見て、対馬丸の悲劇に思いをはせて頂きたいのです。
対馬丸の犠牲者の皆様のご冥福を お祈りいたします。(完)