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「海の武士道」その2・・レイテ沖海戦でアメリカ海軍が見た日本海軍の武士道

■アメリカ海軍が見た日本海軍の武士道■
昨年、ロスのある会合で工藤俊作艦長の「海の武士道」の話をした時に、戦艦「雷」が英国兵のみならず、米国駆逐艦ホープの漂流中の米兵151名も救助していたことも触れました。 すると在米邦人のお一人が、米国から米兵救助に対しての謝意の表明はなかったでしょうか?と質問されたのですが、残念ながらそれに答える情報を持ち合わせて いませんでした。ところが寺子屋モデル社発行の【寺子屋たより・平成21年2月号】に、米国駐在経験者の方の投稿が載っていて、その内容は以下のようでした。

「・・さて、先日頂いた「寺子屋たより」秋晴号に掲載された、戦艦「雷」の工藤俊作艦長が、スラバヤ沖海戦で撃沈した敵艦の乗組員を救助した武士道の話を 読ませて頂き、ふと以前読んだ本の一節を思い出したのでお手紙を致しました次第です。
話の伏線として、私ごとになり恐縮ですが、海軍に奉職していた小生の父は、小生が生まれた昭和19年の秋に、日本の連合艦隊が実質的に壊滅したと言われる レイテ沖海戦で戦死しました。自分の父がどのようにして死んで行ったのか少しでも知りたいと思うのは人情、私も米国海軍省から当時の戦闘詳報を送ってもらったり 日米の戦記ものを読み漁ったりしたものでした。私の読んだ本の中で、確かアメリカで出版された本だったと思うのですが、次のような趣旨のことが書かれていたのを 今でも印象深く覚えております。

レイテ沖海戦の緒戦で日本の巡洋艦隊がアメリカの駆逐艦を撃沈しました。僚艦の救助を待つその駆逐艦乗組員が大勢波間に漂う 海域に、敵空母部隊を追撃する日本の巡洋艦隊が差しかかりました。駆逐艦乗組員は日本の巡洋艦から機銃掃射を受けるものと覚悟を決めたのでした。 しかし如何したのでしょう、彼らが見たものは機銃掃射どころか、艦上から自分たちに敬礼する日本海軍将兵の姿だったのです。これを読んだとき、この行為も 日本海軍の武士道精神の表れであったと思ったのでした。
戦況不利な大海戦の最中、さすがに救助とは行きませんが、徒手空虚で波間に漂う勇敢な戦士に、機銃掃射を あびせるはもっての外、敵ながら天晴れと敬意を表したのであろうと。・・・(以下略)」

日本海軍のこの行為を米国将兵の中にも感じ入った将兵がいたのでしょう、 きちんと報告していたと思われます。原典はわかりませんが、アメリカ側が日本海軍の武士道を認識していた一例としてご紹介しました。尚、レイテ沖海戦について、その 概要を以下に挙げます。

■レイテ沖海戦の概要■
マッカーサーのフィリピン奪還作戦を阻止すべく、昭和19年10月、日本海軍は四つの部隊からなるレイテ島攻撃作戦、捷号作戦を発動。
航空部隊の小沢艦隊がおとりとなって、敵主力を北方へ誘致し、その間に戦艦大和を旗艦(注)とする栗田艦隊、志摩艦隊、西村艦隊がレイテ島に突撃するという 大作戦であった。

おとり艦隊は見事に敵を北方へ誘致したが、西村艦隊は駆逐艦一隻を残し全滅。志摩艦隊もまた、壊滅状態に陥り、作戦不能となった。
栗田艦隊 の方は敵の6波にわたる猛攻で、戦艦武蔵が魚雷20本、爆弾14発を受けて沈没。その他、巡洋艦、駆逐艦にも相当の被害がでており、部隊の再編をはかったとき、 総勢40隻以上いた艦艇も15隻しか残っていなかった。それでもレイテ湾に向かって進撃は続いた。 「小沢艦隊、敵機動部隊を北方へ誘致す」電文がとばされた。しかし、栗田長官には届かなかった。全く情報のないまま、敵の攻撃を受け続けた栗田艦隊は、なんとか レイテ湾目前まで迫ったが、なぜか突入を断念し、反転したのである。
付近に米機動部隊がいると判断したためというが真相は今もって謎である。
この作戦で事実上、 日本海軍の水上部隊は消滅した。戦艦大和は奇跡的に危機を脱して帰還した

■日本の戦力■
航空母艦4
戦艦9
重巡洋艦13
軽巡洋艦6他


■米国の戦力■
航空母艦17
護衛空母18
戦艦12
重巡洋艦11
軽巡洋艦15他


■日本の損害■
航空母艦4
戦艦3
重巡洋艦6
軽巡洋艦1
駆逐艦6沈没など


■米国の損害■
航空母艦1
護衛空母2
駆逐艦2
護衛駆逐艦1沈没など


■神風特別攻撃隊■
この海戦で初めて特攻隊が出撃した。レイテ沖海戦から「統率の外道」と最初の"発令者"第一航空艦隊 司令長官大西中将("発案者"は軍令部との説が有力)自らが呼んだ、神風特別攻撃隊通称「特攻隊」とよばれる、航空機による体当たり攻撃が実施された。 これは台湾沖航空戦により稼動機数が僅か零戦30機程度にまで激減した航空戦力で栗田艦隊のレイテ湾突入援護を行わなければならなかった大西中将が、 苦肉の策として発令したものである。人事及び機材改造など準備に時間がかかることから、作戦の一つとして元々軍令部が準備していたことは疑いないが、 どのようにして大西中将が特攻戦術導入に至ったのか(彼は元々特攻反対論者であった)等は、彼が終戦直後に何も語らずに自決したことにより未だに謎に 包まれている。そして出撃した特攻隊「敷島隊」が挙げた戦果が以下のように報じられた。(この項はフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から参照)